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第5回 『死んでしまったんだ / 椎乃味醂』 考察

三つの層が描く「事実」の死

Inspired by
死んでしまったんだ / 椎乃味醂
  • 考察
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今回は 椎乃味醂さんの『死んでしまったんだ』です。

誤解があったときにアップデートしたいので、なにかあればX等でコメント下さい

v.1.0

はじめに – 情報としての「死」

いまの情報環境で「死」という言葉が指すのは、生き物の命が終わることだけではありません。客観的な「事実(Fact)」が、誰かの主観でできた「物語(Narrative)」に上書きされ、みんなで共有している空間から消えていく。そんな情報の上での「死」も、たしかに起きています。

この記事では、椎乃味醂さんの『死んでしまったんだ』(ボカコレ2022春 TOP100ランキング3位)を、ひとつのエンターテインメント作品としてだけでなく、いまの社会が抱える「何が本当かわからなくなる危機」と、アルゴリズムが人の見るものを決めていく構造を鋭く批評した、ひとつの「論文」として読んでみたいと思います。

この曲の批評は、三つの層でできています。ひとつめは、古典和歌の修辞と学問の言葉を組み合わせた歌詞の層。ふたつめは、PVを一時停止したときにだけ現れるQRコードが学術論文を指し示す映像の層。みっつめは、間奏に入っている電波監視の警告アナウンスによる音の層です。順番に見ていくと、それらが「事実」の死から「ぼくら」の死へと、一本の筋でつながっていくのがわかります。

なお、ここで書くのは作品から読み取れる構造についての考察で、作者さんの意図を代弁するものではありません。

1. 二度の「死」 – 批判はどこへ向かうのか

この曲のサビでは、「死んでしまったんだ」という同じ言葉が、二つの違う主語で歌われます。

1番で死ぬのは「事実」です。心地よい情報だけを選び取り、他人がこしらえた物語を自分の現実として受け入れていくうちに、事実そのものが居場所をなくしていきます。

そういった構造を、
弁えられらないのに、
いつの間にか、
周りの言葉が、
誰かの物語に置き換わって、
「事実」は死んでしまったんだ。

そして最後のサビで死ぬのは「ぼくら」です。その構造を見抜けないまま、何事もないように日々をやり過ごしている、語り手自身を含めた自分たちのことです。

そういった構造を、
弁えられらないのに、
いつの間にか、
平然な顔をして、
ただ流れるまま暮らしている、
「ぼくら」は死んでしまったんだ。

ここで注目したいのは、批判の向きが変わることです。はじめは「君」に向いていた批判が、曲の終わりには「ぼくら」へと折り返してきます。この曲は、社会を外から裁く告発の歌ではありません。告発している自分もまた、その構造の中にいるところまで歌い切っている。そこに、この曲の批評としての誠実さがあるのだと思います。

2. 古典の修辞を、閉じるために使う

2.1 詞書の反転:

だけれど、どこまでいってもそれは君の、
吸い上げた記号でできた物語、
君の君による君のための詞書。

詞書(ことばがき)は、和歌の前に置いて、その歌がどんな場面で、誰に向けて詠まれたのかを説明する短い文章です。『古今和歌集』以降の勅撰和歌集で形が整い、読み手を歌の世界へ招き入れる「入口」の役割を果たしてきました。

ところがこの曲では、その詞書が、徹頭徹尾「君」ひとりのためのものとして歌われます。本来は他人に歌をひらくための文章が、ここでは自分の中だけで完結する、自分を納得させるための物語になっているのです。伝統的な形式の役割をひっくり返すことで、自己完結した情報の受け取り方を浮かび上がらせています。

2.2 序詞のような冒頭と、掛詞:

往々にし取々見かけを嗅ぎ分け、
待ちかねたる触りの良い目の前の、
甘味に溺れ痛い話には耳も傾けない、
大人気ないその妄想、
すら大人気になる状況、

冒頭には、嗅覚・触覚・味覚・聴覚にまつわる言葉が立て続けに並びます。そこから一転して、子どもじみた思い込みほど世間で持てはやされる、という社会の話へ着地します。

和歌の序詞は、目に見える景色を長く詠み起こしてから、本当に言いたい気持ちへとつなげる技法でした。この曲の冒頭も、体の感覚から入って、社会への違和感へと着地するという、序詞によく似た運び方をしています。同じ「大人気」という字を「おとなげ」と「だいにんき」に読み分ける言葉遊びも、和歌の掛詞を思わせます。

3. 触れられない他者 – ネーゲル、クオリア、情報の非対称性

3.1 二つの「できない」:

もしもコウモリの感情や、
どこでもないところからの眺めに、
本当にぼくらが触れられたのなら、
どんなによかったでしょうか。

この一節には、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルの二つの仕事が重ねられています。

  • 論文「コウモリであるとはどのようなことか」(1974年):超音波で世界を感じとっているコウモリが、それを主観的にどう経験しているのかを、人間は原理的に知ることができない。主観的な経験は、外からの物理的な説明では汲み尽くせない、という問題提起です。
  • 著書『どこでもないところからの眺め』(1986年):誰の視点にも立たない、完全に客観的な視点というものはありうるのか、という問いです。

他人の主観の内側には入れない。かといって、誰のものでもない客観の位置にも立てない。この二つが両方とも閉ざされているからこそ、想像と推測が入り込む隙間が生まれます。歌詞はこれを、もし触れることができたなら、という届かない仮定の形で歌っています。

3.2 心の哲学と、市場の経済学:

クオリアの私秘性が、
情報の非対称性が、
その隙間を埋める想像と推測が、
わたしとあなたの間をねじ込んでいく。

クオリアは、赤い色を見たときの「この赤さ」のような、主観的な経験の質感を指す哲学の言葉です。私秘性とは、それが本人にしか直接わからない、ということ。

一方、情報の非対称性は経済学の言葉です。取引する人どうしの間で持っている情報に偏りがあると、市場はうまく働かなくなります。中古車の売り手は欠陥を知っているのに買い手は知らない、という例でこれを示したのが、ジョージ・アカロフの「レモン市場」(1970年)でした。

この曲は、心の哲学の言葉と経済学の言葉を並べ、その隙間を憶測が埋めていく様子を描いています。そこから見えてくるのは、わかり合えなさは心の問題であると同時に、情報が商品として取引される市場の問題でもあるという二重写しです。

ここで大事なのは、この曲が責めているのが、わかり合えないことそのものではなく、その隙間を安易な推測で埋めてしまうことだという点です。触れられないはずの他人の内面を、断片的な情報から「この人はこういう人だ」と決めつけたとき、複雑でわかりきれない他者という「事実」は消えて、受け手に都合のいい物語だけが残ります。タイトルの「死」は、まずここで起きているのです。

4. 解像度の低い消費 – アテンション・エコノミーという市場

4.1 娯楽として消費される他者:

事実と意見の境界線が、
曖昧になっていくその上で、
できた解像度の低い何かが、
エンターテインメントとして消費されている。

この一節は、事実と意見の境目があいまいになったところで生まれる「解像度の低い何か」が、娯楽として消費されていく様子を描いています。SNSや動画サイトでは、誰かの失敗や論争が、背景や文脈をはがされたまま、数分で消費されるコンテンツとして流れていきます。求められているのは高い解像度の現実ではなく、一瞬で感情を動かして反応を引き出す、単純な図式です。

4.2 「関心」という奪い合いの資源:

経済学者のハーバート・サイモンは1971年に、情報が豊かになると、その情報が消費するもの――つまり受け手の注意――が足りなくなる、と指摘しました。情報があふれる環境では、足りないのは情報ではなく人の関心で、その関心を奪い合う市場が生まれます。これがいまアテンション・エコノミーと呼ばれている構造です。

さらにショシャナ・ズボフは『監視資本主義』(原著2019年)で、人々の行動のデータそのものが掘り出され、予測と誘導のための資源として取引される経済の姿を描きました。

この曲が描く、情報があますところなく資本主義の対象になった現代とは、まさにこの状況のことです。第3章で見た「情報の非対称性」は、ここではもう埋めるべき溝ではなく、お金を生む源泉になっています。断片的な情報から扇情的な物語を組み立てた人に関心が集まり、関心はそのまま利益に換わる。事実の解像度を落とすことが、経済的には「合理的」になってしまっているのです。

5. 映像の層 – QRコードが指し示す推薦アルゴリズム

5.1 arXiv:1905.08108:

この曲のPVを一時停止すると、画面の中にQRコードが現れます。読み取った先は、学術論文の公開サイトarXivに載っている、次の論文です。

Xiang Wang ほか「Neural Graph Collaborative Filtering」(SIGIR 2019)
https://arxiv.org/abs/1905.08108

5.2 NGCFは何をする技術なのか:

この論文が扱っているのは、おすすめ機能の中心にある協調フィルタリングという技術です。

それまで代表的だった行列分解(Matrix Factorization)という方法は、ユーザーとアイテム(商品や動画など)をそれぞれ数値のベクトルで表して、その掛け合わせで相性を推定していました。ただ、この方法では「ユーザーAがアイテムXを選んだ」という直接の関係しか学べず、ユーザーどうし・アイテムどうしの間接的なつながりまでは、うまく捉えられませんでした。

NGCF(Neural Graph Collaborative Filtering)は、ユーザーとアイテムをグラフ上の点、そのやりとりを点と点を結ぶ線として表し、グラフニューラルネットワークという仕組みでこの課題に取り組みます。中心にあるのは埋め込み伝播(Embedding Propagation)です。それぞれの点の情報を、隣の点へと段階的に伝え合わせていくことで、直接の関係だけでなく、「Aと同じものを選んだBが、さらに選んでいるもの」といった2段先、3段先の遠い関係――高次の連結性(High-order Connectivity)――まで、まとめて学習に取り込んでいきます。

たとえて言えば、「あなたの友だちの友だちが好きなものは、あなたもきっと好き」という推測を、人間には到底できない深さと広さで、数学的に徹底してやる技術です。

5.3 道をならす機械:

唯々、低いリテラシー、
そこに機械語が歩道を整理し、
繋がったその先は正義心や、
嫉妬心がのさばるチェンバー。
そのベンダーに狭められた、
創造性に気づかないまま、
考えたつもりになっていた人たちが、
この国を壊していた。

2番の歌詞は、機械が人の行き先をならしていき、たどり着いた先では同じ感情ばかりが反響し合っている、という光景を描いています。ここで出てくる「道」のたとえが、NGCFの仕組みと驚くほどよく重なるのです。

埋め込み伝播は、グラフの上で、ユーザーがまだ見ていないアイテムへの経路を計算し、その先にあるものを「次に見るべきもの」として差し出す操作です。自分で道を選んでいるつもりでも、その道はあらかじめ計算で舗装されている。そして、「あなたに似た人たち」の好みをどこまで強く反映させるかによっては、たどり着く先が似たものばかりの集まる場所――エコーチェンバー――に寄っていくこともありえます。

数ある機械学習の論文の中から、文章や画像を生み出すモデルではなく、この「おすすめ」の論文が示されていること。問題の核心が「機械が何かを作ること」ではなく、「機械が人の通り道を決めること」にあると読むなら、これはとても的確な選択だと思います。

ただし、ここは慎重に読みたいところです。この論文が示しているのは、推薦システムが高次の連結性を学習できるという技術的な可能性であって、エコーチェンバーを生み出すことそのものではありません。同じ技術を使っても、似たものだけを届けるのか、あえて違うものを混ぜるのか、何を「よい推薦」とみなして最適化するのか――その結果として何が起きるかは、システムの設計と運用次第です。

だからこそ、この論文が指し示されていることには意味があるのだと思います。道をならす力そのものは中立な技術であり、それを誰が、何のために、どう使うのか。歌詞が詩の言葉で描いた光景に、論文は技術の言葉で「その道はこうやって舗装できる」という仕組みを添えている。QRコードは、その二つを並べて読み、問いを技術から使い手の側へと向け直すための注釈になっているのです。

5.4 ボカコレという「場」への目くばせ:

もう一つ見逃せないのは、このQRコードが、ランキングとおすすめの上に成り立っている投稿イベント「ボカコレ」の参加曲に埋め込まれていることです。作品が流れていく場所の技術的な土台そのものを、作品の中でそっと名指ししている。この曲がそのイベントで上位に入ったという結果まで含めて考えると、かなりメタな仕掛けだと言えそうです。

6. 音の層 – DEURASの警告と「電波」

6.1 間奏の警告アナウンス:

1番のサビが「事実」の死を三度くり返したあと、2番に入る直前の間奏に、女性の声の警告アナウンスが入っています。総合通信局を名乗ったうえで、こう告げる声です。

あなたの発射している電波は電波法に違反しています
ただちに電波の発射を停止してください

(最初の部分は、音が加工されていて聞き取れませんでした。わかる方がいたら教えてください)

総務省は、DEURAS(デューラス:電波監視システム)で不法無線局の電波を探知していて、各地の総合通信局が取り締まりをしています。違法な出力で無線を使っている局に向けて流される警告は、無線好きの間ではよく知られた音声です。

6.2 文字どおりの「電波」と、たとえとしての情報空間:

この音声は、ただの効果音ではないはずです。曲の終盤には、ここまで描かれてきた構造が、暮らしのすみずみにまで、そして電波にまで入り込んでいる、という一節があります。

そういったものが、
日常の生活や、
公共の電波や、
色々なところに溶け込んで、
今日も邪魔をしている。

ここで押さえておきたいのは、この「電波」が比喩ではないことです。情報空間をたとえて言っているのではなく、放送のような、文字どおりの電波のことを指しています。そして間奏のアナウンスもまた、実際に飛んでいる電波を国が監視し、取り締まる音声です。

この二つを踏まえて、間奏の前後を聴き直してみると、仕掛けが見えてきます。1番が「事実」の死を告げ終えた、まさにその直後に、実際の電波を国家が監視していることを告げる声が流れる。そしてその声が止んだところから、2番で情報がまるごと資本主義の対象になった現代が歌われはじめるのです。一方は、目に見えない物理的な通り道を、国が見張っている世界。もう一方は、目に見えない情報の空間を、資本が取り込んでいる世界です。

文字どおりの電波と、たとえとしての情報空間。性質の違う二つの「見えない通り道」が、この間奏を境にぴたりと重ねられている。ここに、このサンプリングの妙があるのだと思います。そしてその重なりから、見えない空間で、何が正しくて何が違反なのかを決めるのは誰なのかという問いが、歌詞ではなく音として差し込まれてくるのです。

6.3 違反しているのは誰か:

さらに面白いのは、立場がひっくり返ることです。警告は個人の電波を「違反」だと告げます。でも歌詞の視点に立てば、情報そのものを資本主義の商品にしてしまった社会の側こそが、何かに違反しているようにも見えてきます。
取り締まられる「ノイズ」の声を曲の中に取り込むことで、正しさの線引きそのものを揺さぶっている。そう読むと、1番の「事実」の死と最後の「ぼくら」の死をつなぐ、もう一本の橋渡しになっているように思えます。

7. 事実が死ぬまで – 六つの段階

ここまでの話を、事実が物語に置き換えられて、最後に死んでしまうまでの流れとして整理すると、次のようになります。

段階 状態 起きていること この記事での対応
1. 実在 触れられない他者 他人の主観にも、どこでもない客観にも、人は原理的に立てない 第3章
2. 認識 記号への圧縮 複雑な現実が、断片的な記号やラベルに押し込められ、解像度を失う 第2章、第3章
3. 構築 物語の生成 欠けたところを、受け手が都合のいい想像と推測で埋め、物語ができる 第2章、第3章
4. 増幅 アルゴリズムの介入 おすすめの仕組みが、設計と運用しだいで、好まれる物語ばかりを選んで届け、道を舗装する 第5章
5. 幽閉 エコーチェンバー 似た情報に囲まれ、偏った物語が「世界の真実」として信じ込まれる 第5章
6. 死 娯楽としての消費 現実が関心を集めるための娯楽として消費され、事実は顧みられなくなる 第4章

この流れの要所には、それぞれ市場が顔を出しています。情報の非対称性(段階1〜3)、関心の奪い合い(段階6)、そしておすすめによる最適化(段階4〜5)。この曲が「事実」の死を、一人ひとりの愚かさではなく構造の問題として描いているのは、そのためだと思います。

8. おわりに – 情報資本主義と「事実」の死

ここまで見てきたように、『死んでしまったんだ』は三つの層が重なってできた作品です。

  • 歌詞の層:詞書・序詞・掛詞といった古典和歌の修辞と、ネーゲル、クオリア、情報の非対称性といった学問の言葉を組み合わせて、関心が取引される市場の中で「事実」が死んでいく過程を描く。
  • 映像の層:QRコードが「おすすめ」の論文を指し示し、人の通り道を舗装できる技術と、それをどう設計し運用するのかという使い手の責任を名指しする。
  • 音の層:電波監視の警告アナウンスが、見えない情報の空間で、正しさを決めるのは誰なのかを問いかける。

そして最後に、その批判は「ぼくら」へと折り返してきます。この記事を書いている私も、読んでくださっているあなたも、おすすめに流れてきたものを受け取って、わかったつもりで暮らしている。この曲がいちばん鋭いのは、そこから目をそらさせてくれないところだと思います。

英語のタイトルは "Ended up Dead" です。"was killed"(殺された)でも "died"(死んだ)でもなく、"ended up"――意図していなかったのに、成り行きの末にそうなってしまった、という言い方です。事実を殺した犯人は、どこにもいません。おすすめの仕組みも、関心を集める人も、それを受け取る私たちも、それぞれがそれなりに合理的に振る舞った結果として、気づいたら事実は死んでいた。この英題は、この曲が描いてきた「構造」を、たった三語で言い当てているように思えます。

まだPVを一時停止したことがない方は、ぜひQRコードを探してみてください。そして間奏の警告アナウンスにも、耳を澄ませてみてください。きっと、この曲の聴こえ方が変わるはずです。

参考文献

  • Thomas Nagel, "What Is It Like to Be a Bat?", The Philosophical Review, 1974.
  • Thomas Nagel, The View from Nowhere, Oxford University Press, 1986.(邦訳『どこでもないところからの眺め』)
  • George A. Akerlof, "The Market for 'Lemons': Quality Uncertainty and the Market Mechanism", The Quarterly Journal of Economics, 1970.
  • Herbert A. Simon, "Designing Organizations for an Information-Rich World", 1971.
  • Shoshana Zuboff, The Age of Surveillance Capitalism, 2019.(邦訳『監視資本主義』)
  • Xiang Wang, Xiangnan He, Meng Wang, Fuli Feng, Tat-Seng Chua, "Neural Graph Collaborative Filtering", SIGIR 2019. https://arxiv.org/abs/1905.08108